そろそろ書いてもいいかな。

実は私、就職活動をしておりました。

学校を卒業後に3年勤めた職場を退職し、大学院に入学。そしてこの度、新卒採用枠で何とか内々定をいただくことが出来ました。

かなり長文ですが、今会社を辞めようと考えている人、悩んでる人の参考になればと思い、自分の中でも一区切りをつけるために文章にしておきます。

 

経歴を簡単に。

20歳で高専を卒業した私は、零細の装置メーカーに入社。しかしそれが苦難の始まりでした。

ワンマン企業で方針がコロコロ変わり、技術的な強みが無い会社でした。長時間のサービス残業・休日出勤が常態化しており、プロセスよりも精神論を重んじる会社でした。

それでも私が入社した年までは、長年のコネで培った大手企業からの受注で、結構な稼ぎを出していました。といっても設備投資や社員の待遇などは抑制されていたので、主に儲けていたのは会社(オーナー一族)でしたが。

しかし私が入社した年、リーマンショックによって日本のものづくりはどん底にまで低迷。私が勤めていた会社も例外ではなく、受注は激減しました。

今までコネや惰性で仕事を貰っていた大手企業も余裕が無くなったので、設備投資を絞ったり、発注先をもっと優秀で安い会社に変えるようになりました。

そこで焦った会社は、新規の顧客の開拓に乗り出したのですが・・・

技術的に大した強みも無く、今までコネで仕事を取っていたので営業力も無い会社に仕事を任せる会社は多くはありませんでした。仕事を任せてくれた会社もありましたが、あまりに酷い有様に1度きりというのがほとんど。

そんなわけで業績は真っ逆さま。ボーナスなんて当然出ません。

社内がピリピリしているので、暴言やパワハラは当たり前。現場の方に殴られたこともありましたっけ。優秀で見識の広い人ほど、見切りをつけてさっさと辞めていきました。

 

このままでは会社が危うい、なんとかしなければと思った私は、業務改善に乗り出しました。

折しもその時、営業力強化ということで外部から招かれた方がいました。その方は私と同じ高専の出身で、大手企業の社員を経て、中小企業の役員などを歴任し、会社に来た方でした。

その方も同じく危機感を持っており、一緒になって様々な改善の提案を行いました。

 

・・・が、その大半は見事に却下。

提案書の内容を吟味した上で、合理的な理由で却下されるならまだ納得出来たでしょう。しかし、あの会社にはそもそも「提案書(文書)を吟味して理解し、コスト対効果を検討する」だけの人間がいませんでした。いや、理解しようとする人間がいなかったのかもしれません。

(「不況でお金が無い」の一辺倒でした。しかし私は後に聞かされたのです。実は社内には、年商の3年分ほどに匹敵する社内留保金があったことを。)

 

これは私にとって衝撃的でした。「人間、きちんと話をすれば分かってくれる」「長年仕事をしてきた社会人なら、それくらいの見識は持っているはず」という私の考えは、見事に裏切られました。

人間というものは、長年狭いビルの一室に閉じこもって仕事をしていると、どんどん視野が狭くなり、感性も鈍くなってしまうのですね。

我々の提案に対して向けるあの「興味無い」という目。あの死んだ目、死んだような表情は二度と忘れることは無いと思います。ああいう表情を浮かべるようになったら人間終わりだと思う。

 

私1人では「社会ってのはこんなもんか」と思ったかもしれませんが、一緒に提案をした例の方曰く「こんな会社はおかしい」とのことでした。

誰もが知っている大手企業の文化を受け継ぎ、今までに何社もの会社の業務を改善してきた方がそういうのだから、間違いないと思いました。

何よりその方が言うことは、私が考えていることとほとんど同じでした。この時点で、退職しようという考えが半分くらいを占めていました。

 

それでもまだ迷っている部分はありました。

私は以前の会社ではそれなりに評価されており、お偉いさんからは「幹部候補生」とも言われて気に入られていたみたいです。

当時の私は「今は苦しくとも、自分が会社で偉くなれば、その時こそ自分の好きなように出来る・・・。だから今は我慢するのもアリじゃないか?」そう考えていました。

 

しかしそんな考え方を一変させる大事件がありました。

 3月11日の大震災です。

 

予想も出来ない天災で、多くの人が一瞬で命を落とすのを見て、「いつかはきっと・・・」という私の考えは吹き飛びました。

いや、なによりも震災という異常事態を前に、前の会社に勤める人間達の異常性を目の当たりにしたからというのも大きかったのかもしれません。

 

震災当日、会社ももの凄い揺れに襲われました。ボロいビルの1Fで作業をしていた私は、立てかけられていた鉄板が倒れてくるのを間一髪でかわし、思わず外に飛びだしていました。

地震の時、ビルの中にいるのなら飛び出さないのが鉄則です。落下物によってケガをするのを防ぐためです。

しかしその時私が思い出したのは、あの震災の少し前にあったニュージーランドでの地震です。語学学校が入居するビルが倒壊し、日本人が下敷きとなって亡くなりました。

思わず私は「このクソ会社のボロビルで死にたくない!どうせ死ぬのなら一歩でも会社の外で!」と考え、飛び出していました。

頭を手で覆い守りながら、ビルを飛び出した私は、お向かいにある安全そうなビルの太い柱に背中を預け、自分の会社が入居するボロビルを振り返りました。

そこには両隣のビルと比較して、前後に1m近く大きく揺れるボロビルの姿がありました。

幸いビルが倒壊するということはありませんでしたが、あの時ほど自分の直感を信じて良かったと思ったことはありません。

 

震災当日、会社がある都内も電車が止まり道路は大渋滞になりました。電話も通じにくい状況です。

そんな中でも、あの会社の社員は黙々と仕事を続けていました。テレビをつけ情報収集にあたるでもなく、黙々とパソコンに向かっていつものどおりの仕事を続けていたのです。

あの時ほどあの会社の異常性を感じたことはありませんでした。私は一刻も早く帰宅し、ぼろい一軒家に居る祖母と愛犬の安否を確認したい気持ちでいっぱいでした。でも、どんな状況でも仕事を優先するという社員の隅々まで浸透したあの会社の精神を実際に目の当たりにして、はっきり言って恐怖を感じました。(結局定時で帰りたかったのに、帰るに帰れず残業をしました)

 

震災直後も、はっきり言って異常な状況が続きました。

被災地がガソリン不足で苦しむ中、あの会社は無駄に社用車を乗り回していました。あまつさえ「ウチは普段からガソリンスタンドと法人契約していて金払いもいいから、優先して給油してもらえる」とお偉いさんが自慢する始末。

協力会社の社員が、工場まで来る自動車のガソリンの確保に苦労し、互いに協力して乗り合いながら通っている最中、ガソリンをジャブジャブ使う社員の姿。

 

気がつけば、もうあの会社にいるのが嫌で嫌で仕方が無くなっている自分に気がつきました。

 

会社選びの基準は3つあると私は考えています。

1、仕事が楽しいかどうか

2、会社が楽しいかどうか

3、待遇が良いかどうか

 

この3つの条件を満たす職場を見つけるのはなかなか難しいものです。しかし、3つは無理でも2つ、最低でも1つは欲しいところです。

そして以前の会社は・・・基準を1つも満たしていませんでした。

唯一楽しかった仕事内容も、お客様に満足して貰えなければ意味がありません。古い社内の体制や、骨董品のCADによって生み出される装置は不良品ばかりで、お客様に迷惑をかけることもしばしばでした。

待遇が悪い、会社の居心地が悪いという理由もありましたが、何よりも人に役に立つことが出来ないというのは、とても辛いものがありました。

 

そして私は、3年と少しを勤めた会社を退職することを決意しました。